歴史探訪

風の杜悲恋

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★風の杜悲恋/ ★こがの杜/ ★鬼界島はどこ?/ ★平家物語・足摺(恩赦)/ ★考察/

風の杜悲恋

pin.gif 恨みじな 風の森なる櫻花 さこそ あだなる 色に咲らめ 夫木集  按察 風の森とて ただおらぬ けしきかな 松葉名所集  春渚 安らけく 平らかなれは 古の民を 治めし跡とこそ見れ 高山彦九郎 film1.jpg
遠く桜島が 治承元年(1177) 平家討伐の策略に加担した 丹波成経、平康頼、僧侶俊寛等は、 ここから 平清盛によって 鬼界島に琉刑に処せられた。 成経の恋人 「伯耆局」(ほうきのつぼね)は 今一度成経に会いたいと、 恋こがれ、 鹿児島八幡の桑幡道家を頼って、 京の都より 幾日もの苦難を越えて、 やっとの思いでこの大隅の地へ辿り着いた。 しかし、 待てど暮らせど渡ることは叶わず、 ここに着ては、 遠く南の彼方を見つめて泣くばかり、、、 月日は巡り、 恋漕がれながらこの地で果てたという。 土地の人々は 「伯耆局」(ほうきのつぼね) を哀れみ ここに楠木を植え、 時を経て大木となり 風が舞う度に お互いの名をを呼び会う 「風の杜」 となる。


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こがの杜


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国分府中の
昔の国府蹟から
手篭川に架かる
眼鏡橋を渡ると、
眼の前の畑の中に
楠の巨木が現れる。。


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この地は、
遠く古今和歌集にも歌われている

「こがの杜」別名「風の杜」

である。 当時は、 この辺り一面は芦の原で、 ここが離島や桜島への船付場だった。
この「こがの杜」から 一旦 鹿児島市の坂本村(現在の清水町) へ出て そこから 其々離島へ 配流された。
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■三国名勝図会■
「こが(古歌)の杜」
とは、
古くから歌に詠まれている場所から
来たとも伝えられているが。。。

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由緒 この地の西側、天降川の対岸には、「奈気木の杜」がある。 また、南西方向には、「気色の杜」が。


■比売乃城■

そして北東には、熊襲(隼人)の抗戦の地「比売乃城」が控え 天孫降臨の霧島連山が遠く夕日に輝いている。


■比売乃城の国司岳より桜島とこがの杜■
■中央辺りに眼鏡橋■


■右下辺りにこんもりと緑が■

  1. 所在地:
    • 霧島市国分向花町(2006年「こがの杜公園」ができた)
    • 北緯31度44分51秒,東経130度45分35秒
  2. 交通:JRバス 国分〜空港線 新町下車 歩10分


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鬼界島とは?

pin.gif 配流された鬼界嶋だが、 これが現在の喜界島なのか どうか確定していなかったようだ。。 東大名誉教授の鈴木尚先生が 伝承の俊寛の墓を調査された。 ■1:当時の庶民の顔とは違う貴族顔 ■2:埋葬方法が島外の相当身分の高い人物 以上のことから、 人類学的に俊寛とされた。 よって現在の「喜界島」が平家物語の「鬼界嶋」 であることが確証できた。 「骨」は語る−日本人の起源と進化


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平家物語・足摺


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御使は丹波の左衛門尉基康
と申す者なり。
いそぎ船よりあがり、
「これに、都より流され給ひたる
法勝寺の執行俊寛僧都、
丹波の少将成経、
康頼入道殿やおはす」
と声々にぞたづねける。

二人は、例の熊野詣してなかりけり。
俊寛一人ありけるが、このよしを聞いて、
「あまりに思へば夢やらん。
また、天魔波旬が来たつて、
わが心をたぶらかさんとて言ふやらん。
さらにうつつともおぼえぬものかな」
とてあわて騒ぎ、走るともなく、
いそぎ御使の前にゆきむかつて、
「なにごとぞ。これこそ都より流されたりし俊寛よ」
と名のり給へば、雑色がくびにかけたる文袋より、
入道相国の赦文とり出だして奉る。

これをいそぎあげて見給ふに、

「重科は遠流に免ず、はやく帰洛の思ひをなすべし。
中宮御悩の御祈りによて、非常の大赦おこなはる。
しかるあひだ、
鬼界が島の流人ども、少将成経、康頼入道赦免」
とばかり書かれて、
「俊寛」といふ文字はなし。

「礼紙にぞあるらん」とて、
礼紙を見るにも見えず。
奥よりはしへ読み、はしより奥へ読みけれども、
「二人」とばかり書かれて、
「三人」とは書かれざりけり。

さるほどに、少将、康頼入道も出で来たり。
少将取つて見るにも、康頼入道読みけるにも、
「二人」とばかり書かれて、
「三人」とは書かれざりけり。
夢にこそかかることはあれ、
夢かと思ひなさんとすればうつつ、
うつつかと思へば夢のごとし。
そのうへ、
二人の人々のもとへは都より
ことづてたる文どもありけれども、
俊寛僧都のもとへは、こととふ文一つもなし。
「されば、わがゆかりの者ども、
都のうちに跡をとどめずなりにけり」
と思ひやるにもたへがたし。

「そもそも、われら三人は、
罪もおなじ罪、配所もおなじ所なり。
いかなれば、赦免のとき、二人召し返され、
一人ここに残るべき。平家のおもひわすれか、
執筆のあやまりか。こはいかにしつる事どもぞや」
と、天にあふぎ、
地に伏して泣きかなしめどもかひぞなき。

少将の袂にすがりつき、
「俊寛がかくなるといふも、
御辺の父故大納言殿のよしなき謀叛のゆゑなり。
されば、よそのことに思ひ給ふべからず。
ゆるされなければ、都までこそかなはずとも、
船に乗せて、九国の地まで着けてたべ。
おのおのこれにおはしつるほどこそ、
春はつばくらめ、
秋はたのむの雁のおとづるる様に、
京のことをも聞きつれ。いまよりのちは、
いかにしてかは都のことを聞くべき」
とて、もだえこがれ給ひける。

少将、
「まことにさこそおぼしめされ候はめ。
われらが召し返さるるうれしさは、
さることにて候へども、
御ありさまを見たてまつるに、
行くべき空もおぼえず。
うち乗せたてまつりて上りたうは候へども、
都の御使もかなふまじきよしを申し候。
そのうへ、
『ゆるされなきに、三人ながら島を出でたる』
なんどと聞こえ候はんは、
なかなかあしう候ひなんず。

まづ成経まかり上りて、
入道相国の気色をもうかがひ、
むかへに人を奉らん。
そのほどは、日ごろおはしつる様に思ひなして、
待ち給へ。
なにとしても命は大切のことにて候へば、
このたびこそ漏れさせ給ふとも、
つひになどか赦免なうては候ふべき」
と、こしらへなぐさめ給へども、
こらふべしとも見えざりけり。

さるほどに、「船出だすべし」とて、
ひしめきければ、僧都、船に乗りてはおり、
おりては乗り、あらましごとをぞせられける。
少将の形見には夜のふすま、
康頼の形見には一部の法華経をぞとどめける。
ともづな解いて船押し出だせば、
僧都、網にとりつきて、腰になり、脇になり、
たけの立つまでは引かれて出で、
たけのおよばずなりければ、
僧都、船にとりつきて、
「さて、いかに、おのおの。
俊寛をばつひに捨てはて給ふものかな。
都までこそかなはずとも、この船に乗せて、
九国の地まで」
とくどかれけれども、
都の御使、
「いかにもかなひ候ふまじ」
とて、とりつき給ふ手をひきはなして、
船をばつひに漕ぎ出だす。
僧都、せんかたなさに、なぎさにあがり、
たふれ伏し、をさなき者の、
乳母や母なんどをしたふやうに、
足ずりをして、
「これ具してゆけ、われ乗せてゆけ」
とをめきさけべども、
漕ぎゆく船のならひとて、あとは白波ばかりなり。

いまだ遠からぬ船なれども、
涙にくれて見えざりければ、
高きところに走りあがりて、
沖のかたをぞまねかれける。
かの松浦小夜姫が、
もろこし船をしたひつつ領布(ひれ)ふりけんも、
これにはすぎじとぞ見えし。

船も漕ぎかくれ、日も暮るれども、
僧都はあやしのふしどへも帰らず、
波に足うち洗はせ、露にしほれて、
その夜はそこにてぞ明かされける。
「さりとも、少将はなさけふかき人にて、
よき様に申すこともや」
とたのみをかけて、
その瀬に身をだに投げざりし
心のうちこそはかなけれ。

むかし早離、速離が海巌山に
はなたれたりけんありさまも、
これにはすぎじとぞ見えし。

二人の人々、鬼界が島を出でて、
肥前の国鹿瀬(かせ)の荘(しやう)に着き給ふ。
宰相、京より人を下して、
「年のうちは波風もはげしう、
道のあひだもおぼつかなう候へば、
春になりて上られ候へ」
とありければ、
少将、鹿瀬(かせ)の荘(しやう)にて
年をぞ暮らされける。



平家物語・長門本


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かくて日数もつもりゆけば、
日向の国あや部の港わかの津に
こそ着かれけれ、
それよりして、
鐡輪三足のさかに取り上りたまふ、
下臈はかなは坂とも申けり、
是は我朝人皇のはじめ、
神武天皇の日向国宮崎の郡に、
帝都をたて、御即位有し時、
三女一男下りて土の仏を作りて、
てつりん三足をたてて、
供御をしてまつりけり、
それよりして、最初竈門三足の峯とも申、
都にありし時は
家の日記を以て是れを知るといへども、
いかでか親に見べき、
をん流の思ひでには、
かかる名所を見るこそ
すこしなぐさむ心地すれ、
それ室野、船引、大山と
いひて月影日影も
ささぬ深山の峨々たるせきがんを凌きこえて、

日向国西方が島津の庄に着給ふ、
彼庄内にあさくら野と云所に、
ひとつの峯高くそびえて、
煙りたえせぬ所あり、
日本最初の峯、霧島のだけと號す、

金峯山、しやかのだけ、
富士の高根よりも、
最初の峯なるが故に、
名付て最初の峯といふ、

六所権現の霊地也、
彼いただきに巌穴あり、
長時に猛火もえ上りて、雲に續く、
いつとなく黒砂ふり下りて、
すゑ何千里とはかる事なし、
然れども彼峯を
何の本地ともしらざりけるを、
はりまの国、書写の山を建立してける、

證空上人彼峯に登山して、
我この神の本地を拝み奉らんと
誓ひ給ひて、
七日参籠して、
法花経をどくじゆせられける、

五日といふ子の刻ばかりに、
大山震動して、岩崩れ、
めう火もえて、
ことに煙りうずまきて、
暫ばかりして、
廻り一二丈そのたけ十余丈ばかり
ある大蛇の、
角はかれ木の如くおほひかかり、
眼は日月の如くかがやきて、
大にいかる様にて出来給ふ、

上人是を御覧じて、
此山の有さまを見るに、
もとより龍宮じやうとは
ぞんぜられ候ぬ、
思ふにすゐじやくは龍のすがたにて
あつし候か、
本地をこそ拝み奉度候へ、
とくとく本地を現はさせ給へ、
あしくもげんぜさせ給ふものかなとて、
はたと守り奉る、大蛇本地に帰りぬ、

つぎの日の未の刻計に、
三尺計なる大鷹の尾ふさの鈴を
ふりならして、
めう火の中より飛び出て、
前なる平岩に居たり、
しやうくう腹を立て、
龍をだに用ひ奉らず、
いはんやいやしき野鳥のすがたをば
用奉るべきや、
然らば心眼ともにひらきて、
仏体を拝み奉らんとこそ思ふに、
見仏せざらんには、
双眼ともに無益なりとて、
どこを持て双眼をささんとし給へば、
鷹去てしばらく計して、
十一面の観音光明かくやくとして
幻のごとくにて見えさせ給ふ、
その時上人夢うつつともわかず、
ずゐき申ばかりなくして涙を流されけり、
性空上人心中のせいぐわんには、
こんど仏たいを拝み奉程ならば、
法華の行者と成て、彼教に従ひて、
衆生をけどせんと誓はる、
したがひて心願成就のうへは、
法華を殊に信仰し給へり、
此煙の中より光さして
末のとどまらん所を、
我在所と定めんと思召されけるに、
煙の中より光をさして、
はりまの国書寫にとどまる、
よてかの所をこんりうして、
長きすみかとし給ふ、
かかるごんけの人の徳を
ほどこし給へる峯なれば、
成経も参籠して拝まばや、


我さつま方へ行なん後は、
二たび故郷にかへらんことかたし、
しやさんして後世をたすからんと
思ふはとありければ、
預りの武士なさけある者にて、
何かくるしく候はんとて、
具し奉り参りたり、

殊に地ぎやうすぐれて、
眺望世にこえたり、
ためし少き所也、
少将あまり名残をしくして、
七日参籠して、法華廿八品、
尺の石の面に書寫してこめ奉りて、
そとばを作り、
五輪をきざみ、
梵漢両字を書きなどして、
忘れがたみを残し、
梅桜をみづから植置き、
さまざまに、
彼山にかたみをのこしなどして、
御宿に下向あり、

少将月日の重るにつけても、
ただ故郷のみ恋しくて、
暮にも及びければ、
今様をうたひ、
らう詠をしなど心をすまし、
涙を流し、
いつとなくしほれたる御有さま也、
心あるも心なきも、
互に袖をぞしぼりける、

預の武士ども申けるは、
此君になれ参らせて、
名残はをしく成ませども、
思ひあき奉る事はなし、
さればとて都に聞れん事も恐れあり、
とくさつまがたへ渡し奉らんとて、
又出立せ奉る、
少将是をこそ、
ずゐぶんにつらき所と思ふに、
猶いたましき所のあらんずるにやと
先しられてかなしかりけり、

さてはやに
夏影、
とかみ、
あかさか
といふ所を打過て、
大隅の国けしきのもりに
つき給ふ、
少将此森を見給ひて、

秋近きけしきの森になく蝉の
涙の露や下葉染むらん


と云名所は是やらんとぞ思しめしける、

正八幡宮の御あたりを
よそながら拝み奉り、
宿願をたてて、通られけり、

少将は都にてさつまがたへと
聞給ひしかば、
さもやはと思給けるに、
九州のうちには有ざりけり、
誠に世の常の流罪だにかなしかるべし、
まして此島の有様伝聞ては、
各もだえこがれけるこそむざんなれ、
道すがら旅の寒さこそ哀を催しけめと、
推量せられて哀也、
せんどにまなこさきだつれば、
とくゆかんことをかなしみ、
きうりに心をとうずれば、
はやく帰らん事かたし、
或は海辺すいたくの幽かなるみぎりには、
蒼波眇々として、恨心綿々たり、
或は山関よう谷のくらき道には、
巌路峨々として、
ひるはゆうゆうたり、
さらぬだに旅のうきねはかなしきに、
更る夜の月のほがらかなるに、
夕つげ鳥かすかに音づれて、
遊子残月に行けむ、
凾谷の思ひ出られてかなしからずと
いふ事なし、
さつまがたとは惣名也、
きかいは十二の島なれば、
くち五島は日本へ随へり、
おく七しまは
いまだ我朝に従はずといへり、
白石、、あこしき、くろ島、
いわうが島、あせ納、
あ世波、やくの島とて、
ゑらぶ、おきなは、
きかいが島といへり、
くち五島の内、

少将をば三のとまりの
北いわうが島に捨て置く、
康頼をばあこしきの島、
しゆんくわんをば白石がしまにぞ捨置ける、

彼島には白鷺多くして、石白し、
水の流に至るまで、
波白くぞ見えていさぎよし、
かかりければ白石島とは云けるかや、
せめては一島にも捨てられたらば、
なぐさむ方も有るべきに、
遥なるはなれ島どもにすて置きければ、
かなしきなどいふも愚也、


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考察


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実際のところ
この物語の主人公の
成経は翌治承2年(1178年)に
赦免され帰京したのであるが

pin.gif 「重科は遠流に免ず、はやく帰洛の思ひをなすべし。 中宮御悩の御祈りによて、非常の大赦おこなはる。 しかるあひだ、 鬼界が島の流人ども、少将成経、康頼入道赦免」 とばかり書かれて、「俊寛」といふ文字はなし。
成経は、 平清盛の弟の 教盛(門脇宰相、門脇中納言) の娘婿である。 幾度も 娘婿の減免嘆願をしたが ななかなか聞き入れられず、 懐妊した清盛の娘で 高倉天皇の中宮・徳子 (後の建礼門院) の安産祈願として大赦を願い出て、 やっと清盛もこれを許し、 翌治承2年(1178年)に 成経は赦免され帰京した。 どうしたことか 康頼入道と二人で 帰京してしまったのだ。 と言うのが本筋なのだが 長門本では「成経」は独身である。 この悲恋はそこから 派生したものだろう。 ★★ 次は長門本の一説を ★★
pin.gif 丹波少将被召取事 新大納言嫡子丹波少将成経、 歳二十一、 院御所に上臥して、 未だ罷出られぬほどなるに、 大納言の御ともなりつる侍一人、 殿の御所へ馳参て、 大納言殿は西八条に召籠られ給ぬ、 夕さり失奉るべきよし聞え候、 公達皆めされさせ給べしとこそ承りつれと申ければ、 こはいかにとあきれ給ひて、 物も覚え給はざりけり、 さりとも宰相のもとよりいかにつげ給はぬやらんと、 しうとの門脇の宰相をぞ怨給ひける、 去程にやがて宰相のもとより使あり、 具し奉て来れと八条より申されたり、 いそぎいそぎわたり給へ
俊寛について
また、なぜ、 俊寛だけ残されたかというと 平清盛の逆鱗に触れ 「鹿ケ谷の陰謀事件」の首謀者 とされたがためである。 陰謀の元凶とされた 大納言成親は、 備前の国に流し その後有木の別所(国境)に移し その挙句暗殺した。 その後の 鬼界ヶ島での 俊寛の様子は 第三巻の 『有王が島下り』 に述べられている 有王が嶋に渡って 俊寛と供に暮らし 23日目に 俊寛は庵の中で 息を引き取る。 37歳であった。 有王は俊寛の遺骨を 高野山へ持ち帰り 奥の院に納めた。 又、 芥川龍之介も これを題材にして「俊寛」を 書き上げている。 別の伝承では 俊寛は密かに 筑紫へ向ったが 船内で病となり 出水で降りて 野田村下名の山内寺で 養生・隠棲生活を送ったが そこで生涯を閉じたと。。 出水には 俊寛僧都碑(しゅんかんそうずひ) が建立されている。 同じく 長崎市の伊王島にも 俊寛僧都の墓 がある。
伯耆局のその後
それでは最後に この悲恋の 「伯耆局」(ほうきのつぼね) はどうしたのかと言うと 当地に留まり 桑幡道家の妻となったのである。 後日談だが、 これが大正解な訳で この数年後、 平家は滅亡するのだから。。 人生とは摩訶不思議なもので。 何が幸いするか判らない。 尚、桑幡家は 現在の宮内小学校正門前にあり 最近、当時の遺構が発掘された。 「伯耆局」(ほうきのつぼね): 左衛門尉朝重の娘、牛王殿 桑幡家遺構
04/12/4撮影
平家滅亡
高倉天皇の中宮・徳子 (後の建礼門院)のお子は 後の第81代天皇:「安徳天皇」となるが 平家の衰退は目前に迫っていた。 文治一年(1185)壇ノ浦で、 二位の尼(平時子:祖母)とともに 8歳にして入水したと伝承されているのだが、 幼き命を哀れんでか生存説が各地にある。 何とお隣『垂水の宮崎小路の奥』に陵があると いうのだが、今度別項で調査してみたい。 参照ページは次: 安徳天皇と陵 また、居世神社(こせ)は、「欽明天皇の第一皇子」 の伝承がある。どこか酷似しているのだが。。。
流刑のルート
長門本によると このこがの杜へは 宮崎の海岸に船で着き そこから 綾を抜け 都城庄内を通り 北永野田の赤迫(赤坂)へ出て 現在の2号線を南下し 牧内(妙見神社)から 入戸へ下り 止上神社を通り 気色の杜 (現在の第一工大) へ出て向花から こがの杜へ着いたと 思われる

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