
古代人は
川の近くで東南向きの台地を
一番好んで住んだといわれる。
全く自然条件によって生きたいた当時は
条件がいいとなると想像以上に人々は集中して、
規今の都会と地方のような傾向が古代にもあったといわれる。
これは集団によって
有無相通じようとする未発達の古代経済の原則であり、
また
自然への抵抗も集団によって
排除しようとしたことにほかならないし
縄文の時代は
部族国家の発生もここにあったのである。
串木野市役所庁舎の屋上から
東南方の島平浦照島の方向を展望すると
足下の郷之原、島平上の「守り山」一帯は
太古縄文の時代は平らな森林地帯で唐船塚から
高畑、前原、台地の斉連ヶ岡へと続いていた
ことは土質の上で明らかである。
須賀の川(土地の人は神の川という)や
五反田川の川魚はいうに及ばす
海岸に出れば
野元の潟や照島海岸黒瀬の浜で
汐の干いた干潟にはピチピチした魚がはねており
名も知らぬ多くの貝がころがっている。
照島の磯にも黒瀬の浜にも、
しかも素手でつかみ取りすることができる。
大きな魚を食いたければ
糸をおろすと長崎鼻の鬼が橋、
いか待亭のところではおいしい「水いか」が
うようよよ泳いでおり照島の男池、
女池などでは間がないほど鯛もよく釣れたであろう。
海はいつも波静かで
交易のため各地に出かけようとすれば
岬をまわっただけで外海に
出られる処である。
名勝図会にも
照島は「島平浦の海中にあり
海岸を距ること一町許りなるべし。
此島東西に長さ二町余り、南北一町余なる小島なり、
この島海上を蔽(かばうこと)
する故に島陰に舟船を安泊すべし。」
とあり
今に古代秦国との交流の名も留める
かの如き「しん波止」と称する海中に大石を
集めて作った波止の磯石もある。
山の猟は
近くの愛宕山や斉連ヶ岡へ登れば鹿、猪が手近に獲れたであろう。
岡から山へ追い込んで
谷間に突き落とす古代の狩猟に
格好の地はいくらもある。
今だに
「狩越」とか「鹿倉」とか「野落」などの
字地が古代の狩猟場を思わせる所が多い。
遺跡地の市来式貝塚の北方、
八房川の川向かいにある海瀬、中井原、あたご山火葬場付近に
その名を留めている。
このような背後地を含めて
「島とは古代には一区切りの言い。」
とあるがここが島平で幸島でもあったのだろう。
串木野史談誌第五号に
河口県考古学会長は次の一文を書いている。
「弥生式の遺跡として著しいものは
島平の城ヶ崎と村の下の遺跡で
同地域の耕地整理の際に出土した
土器は前期より中期弥生へかけての
数すくない遺跡の一つであろうと思われる。
この地は
海岸に近い低平な土地で
近年沖積した陸地であろうと思われるが
発掘によって
遺跡の状態をたしかめてみなければ
文化の内容についても明らかにすることができないのは残念である。
おそらくは面白い遺跡として
何らかをもたらす資料が埋蔵されていると思われる。
今後は期待されるものである。
と。
串木野地方は背後に山地をひかえ
前にはすぐ海がせまり、
せまい海岸平野がひらけ、
山間の谷谷へ平地水田がはいりこんでいる状態であるが、
これ等の平地帯には
有史以前すでにかなりの生活地域がひろがっていた事が推定される。
隣接の市木町には川上貝塚があって、
縄文式文化がすでにこの地域に発展したことを
この遺跡が示して呉れている。」
と記している。
この考証によって
考古学的にも島平には
有史以前から住民の存在が認められ古代性が肯定されよう。
そして
古代中国文化の窓口として
その受容性が既にひらけていたことを立証しておき度い。