伝説の人

徐福を訪ね
探り求めて二十年

徐福像

串木野市の歴史家三善善一郎氏のご好意により著書「伝説の人徐福を訪ね、探り求めて20年」を掲載

4.佛の国薩摩

 
pin.gif 日本の南西にある九州は、 昔中国人は 四角な島と感じ方丈ともいっているが、 九つの国から成り立つので、 のちに九州と呼ばれた。 即ちそれは 豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後に日向、大隅、薩摩 の国である。 古代においては この薩摩は 九州の大名(おおな)であり凡称であったともいわれ、 またのちには 筑紫の果の薩摩湾などともうたわれた時代もあるのである。 今日我が鹿児島県は 南九州の日向の一部と大隅薩摩を領域とし、 宮崎県は日向の国を占めている。 豊と筑と肥に前と後をつけて豊前、豊後、筑前、筑後、肥後、肥前と国を呼んだ。 このような中には 南九州の旧国名は対の前、後がなく薩前、薩後、隅前、隅後、 などと何故呼ばれなかったのだろうか。 私はここに大きな意義を考えるのです。 島津の始祖忠久公は 「得佛公」といわれるほどの佛の信者である。 親鸞聖人とは 京都で交友もあったといわれ 冠岳山鎮国寺頂峯院の本尊に 阿弥陀仏を安置したと三国名勝図会にもある。 また二代の忠時は「道佛公」と贈名されている。 薩摩の薩は菩薩の薩である。 薩は達摩の摩である。 日向、薩摩と云えば 天孫降臨の話がでて皇国最初の地、 早初(さはじまる)の地とか 隼人とか熊襲とかの武伝が語られ 日本の最南端の辺境にあって 閉鎖性が強く皇化になじまない後進国、 保守性の側面を捉える者が多い。 が、古代の薩摩は正に菩薩の国、佛の国である。 南北の辺境とちがって 薩摩という西南の辺境は、 飛切り新しい世界への最短距離にあったという 地理的幸福が大和や出雲より早く文物文化の 流入があったのである。 海幸、山幸の豊かな国であったので 幸島(さちしま)さつまと呼ばれるに至ったと思う。 南九州地方は 気候温暖で雨量多く樹木が よく茂り海は穏やかで 採取経済を主にしていた縄文文化の時代にあっては いかにも人間生活にとって楽しい天地であったろう。 此処を 当時の世の進運にとり残された 日本の辺境と見るのは 以後の歴史観に狂いを生ずる原因となる。 南九州は 弥生の文化に入るまでは 日本の先進的文化があったればこそ 今日は逆に古墳や出土品も数少ない特異現象もあるのではなかろうか。 例えば、 串木野のみなとを起点として 50kmの半円に古墳の分布が少ないのは なぜだろうか。 これは古墳時代以前に文化隆盛の存在を逆に証明するものと思う。


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