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神社一覧 南九州


和気神社 牧園町


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鎮座地/御祭神/神事・例祭/由緒/概要/


鎮座地

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■所在地:  鹿児島県霧島市牧園町中津川  北緯31度49分20秒,東経130度45分43秒 ■連絡先:  牧園町(0995-45-5111)   ■交通 : バス:○霧島温泉駅〜中津川、     和気和気神社下車、歩2分 ○国分〜日当山〜安楽〜霧島、  安楽温泉下車歩15分


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御祭神

No 神社名 位置所在 名称
祭神 摘要 備考

和気神社


和気清麻呂




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神事・例祭

例祭名概要摘要
56例大祭
1126亥の子祭
毎月6月例祭


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由緒


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■神護景雲3年(769)九月巳丑条  和気清麻呂が、平安時代にこの地(古来稲積と云う)に  流刑された。  わずか一年程の流罪であったが、  種々の伝承が遺っている。 ■江戸時代()  島津斉彬(第28代藩主)が流刑の地を調査し  この地を比定する。  薩摩半島にも稲積・中津川はある。 ■昭和12年(1937)  地元崇敬者有志の浄財により和気祠堂建立 ■昭和21年3月18日(1946)  浄財により、伝承の和気祠堂史跡に神社を創建した。


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概要


由緒

鳥居

拝殿

社殿

境内

社務所

境内

稲積翁碑

犬飼滝

和気湯


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考察


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犬飼滝と高千穂の峰
  1. 和気清麻呂がこの地へ流刑された期間は、 769〜770の一年余りだった。 果して当地では何を成し得たのだろうか。 謎は深まる。
  2. しかし、京都へ戻ってからの清麻呂の功績は 大きかったようだ。 桓武天皇の信託を得、近畿地方の河川改修や治水工事 土木事業完遂した。とある。
  3. 大隅へ配流されたルートだが 先ず、大隅の「波見の浦」に上陸し笠野に2泊逗留し この犬飼へと云われている。 尚、三国名勝図会には次のような出自がある。
    神護景雲の年中
    和気清麻呂是に詣で
    堂を去ること卯の方三町許に
    精藍を建立し
    南柳山安楽寺
    と名ずけて
    別当とす
    
    按に景雲の年
    清麻呂 八幡の神託を直言し
    道鏡が為に大隅へ配せらる。
    
    清麻呂
    笠野薬師に詣しは
    此時なるべし
    
    
  4. 尚、他の出典は次のようだ。
    『続日本紀』巻卅神護景雲三年(七六九)
    九月己丑《廿五》◆己丑。
    
    始大宰主神習宜阿曾麻呂希旨。
    方媚事道鏡。因矯八幡神教言。
    令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負。
    
    天皇召清麻呂於床下。
    勅曰。昨夜夢。八幡神使來云。
    大神爲令奏事。請尼法均。
    宜汝清麻呂相代而往聽彼神命。
    臨發。道鏡語清麻呂曰。
    大神所以請使者。
    蓋爲告我即位之事。因重募以官爵。
    
    清麻呂行詣神宮。
    大神詫宣曰。我國家開闢以來。
    君臣定矣。以臣爲君。未之有也。
    天之日嗣必立皇緒。无道之人。
    宜早掃除。清麻呂來歸。奏如神教。
    
    於是道鏡大怒。
    解清麻呂本官。
    出爲因幡員外介。
    未之任所。尋有詔。
    
    除名配於大隅。
    其姉法均還俗配於備後。
    
    
    
    続日本記:
    宝亀元年(770)九月乙丑条
    
        徴和気清麻呂
        廣虫於備後大隅
        詣京都
        
    
  5. また、境内で大切に飼育されている「白豬」については
       日本後記:
       延暦18年(799)正月乙丑条
    
        天皇不忍誅
        爲因幡員外介
        尋改姓名
        爲別部清麻呂
        流于大隅國
    
        日本後記:
        延暦18年(799)二月乙未条
    
        豊前國宇佐郡若田村
        有野豬三百許
        挟路面列
        徐歩前駆十里
        走入山中
    
    
  6. 大分歴史辞典・転載

道鏡の野望をくじく

 733−799 奈良末 平安初期の政治家。
 姉 広虫(ひろむし)とともに 称徳(しょうとく)天皇に仕え
 神護景雲3年(769)、 
 道鏡(どうきょう) が皇位につこうとした事件で 
 宇佐八幡宮 の 神託(しんたく)をもたらし道鏡の野望を退けた。
 そのため大隅国に流されたが後に召還され、 
 桓武(かんむ)天皇の信任をうけ従三位に昇進した。
 
 古事に通じ「民部省例」や「和氏譜」を撰し、
 また平安遷都や摂津河内川の水利事業にも功をたてた。
 
 このように、和気清麻呂は中央で活躍した人物であるが、
 大分県と深くかかわりをもっている。
〈宇佐八幡宮神託事件〉
 称徳天皇の 寵愛(ちょうあい)をうけ、
 法王にまでなって政権をほしいままにした道鏡が、
 皇族以外ついたことのない皇位を望んだ。
 
 神護景雲3年5月ころ、 
 豊前国司 から 大宰主神(だざいかんつかさ)に転任していた
  中臣習宜阿曽麻呂(なかとみすげのあそまろ) が
  「道鏡を天位につけたらさぞ天下はよく治まるであろう」
  という八幡神の 託宣(たくせん)があったと朝廷に奏上した。
  
  そこで八幡神の託宣が真実であるかどうかを
  確かめるため和気清麻呂が派遣された。
  彼は8月の前半ごろ宇佐から帰り神託を奉告した。
  「わが国は 開闢(かいびゃく)以来君臣定まりぬ。
  臣をもって君となすこといまだこれあらざるなり。
  天つ 日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。
  無道の人はよろしく早く掃ひ除くべし」と。
  道鏡の野望はくじかれたが、
  清麻呂は 因幡員外介(いなばのいんがいのげ)に左遷され、
  さらに別部 穢麻呂(きたなまろ)と名を変えられ大隅国へ配流された。
  
  しかし、道鏡の後ろ盾となっていた称徳天皇が崩御すると、
  道鏡は急速に勢力を失い 下野(しもつけ)国薬師寺に流され、
  宝亀元年(770)9月6日、清麻呂はゆるされ帰京した。
  
  『 日本後紀 』は宇佐神託にまつわるいろんな伝説をあげている。
 「清麻呂が宇佐に着いて祈った時、大神が形をあらわし、
 その長さは三丈ばかり、色は満月のようで、
 清麻呂は魂を消し度を失い仰ぎみることができなかった」とか、
 「清麻呂が道鏡の怒りをかい大隅に流される途中、
 道鏡のために殺されそうになるが、
 雷雨がはげしくなりにわかに勅使が来て免れることができた」とか、
 「下向の途中清麻呂の足が 痿(な)えて立つことができなくなり、
  輿(こし)に乗って行ったが、豊前国宇佐郡 (しもと)田村を通過した時、
  野猪300匹が道をはさんで並び10里ほど先導したが、
  社を拝する日に足が治った」などである。
〈豊前国司としての清麻呂〉

 次に大分県にかかわったのは、
 豊前国司として宇佐八幡神職団の粛正を行ったことである。
 彼は宇佐八幡の宮司や 禰宜(ねぎ)が
 しばしば神託にことよせて妖言し国政を乱したのに、
 これまでの国司はそれを 糺(ただ)そうとはしなかった
 との理由で判官以上の国司と共に宇佐宮に赴き実否を検察した。
 そして神職団の内容を、 
 大宮司(だいぐうじ) に 大神朝臣(おおがのあそん) 、
 少宮司に 宇佐公(うさのきみ) 、
  禰宜(ねぎ) 祝(はふり)に 
  辛嶋勝(からしまのすぐり) と秩序づけた。
  道鏡の息のかかった神職団の解体である。
 もともと宇佐の神は、
 古い土豪であった宇佐公の信仰する 比 神(ひめがみ) が、
 後に豊前北部に勢力をはった帰化人の 秦(はた)氏 のもとにある
 辛嶋勝氏の信仰する 八幡神 におされ、
 合祠されたものである。
 これに秦氏に近かった大神氏が進出し、
 6世紀半ばごろには大神 辛嶋の神職団が宇佐氏を抑え主導権を握った。
 そして八幡神は東大寺大仏造立と結び付き
 全国的に知られるようになる。
 しかし大仏が出来上がると、
 勝宝6年(754) 大神 田麻呂(たまろ) は
 追放され大神氏は勢力を失う。
 替わって宇佐氏が宮司に返り咲き辛嶋氏が禰宜となる。
 つまり八幡神に替わって宇佐氏の奉ずる比神が主体となったのである。
 この情勢を引き出したのが道鏡である。
 道鏡政権下では宇佐は八幡神であるより比 神の宇佐宮と化し、
 比 神は八幡神の上におかれた。
 おそらく道鏡に偽の神託を持ち込んだのは
 この宇佐氏に代表された神職団であろう。
 朝廷に道鏡天位の神託を奏上した
 大宰主神の中臣習宜阿曽麻呂という人物は
 もともと 神祇(じんぎ)を 司(つかさど)る 中臣(なかとみ)氏の
 配下にあるから当然帰化系の大神氏の側ではなく、
 宇佐氏に近かった。
 それゆえ和気清麻呂は、豊前国守として現地に乗り込んだ時、
 道鏡の影響をうけた神職団の解体をはかり、
 宇佐氏の優越を押さえ帰化系の秦 大神ラインを復活させたのである。
 ただ、宇佐氏も少宮司の地位を得ており、
 清麻呂の裁決は公正なものであり、現地の実情によく通じ、
 それまでの国司が安易に流れ放任していたもののけじめを
 はっきりつけたといえる。
 このような清麻呂の活躍は、
 その後宇佐宮に派遣される 和気使(わけづかい)
  (天皇の即位奉告使)として定着する。
 使者は和気氏の 氏長者(うじのちょうじゃ)または
 正当の正五位以上の者が任命された。
 しかし、
 清麻呂豊前守については疑問点がある。
 つまり『 東大寺要録 』『 託宣集 』『 石清水文書 』では
 宝亀2年(771)から同4年2月ごろまで豊前守であるが、
 『続日本紀』によるとこの時の豊前守は 
 安倍朝臣 御縣(みあがた) で
 宝亀2年11月19日任官、同5年正月7日正五位上に昇進(官位相当制で
 次に新しい官職につくはずである)、
 その2か月後の3月5日 多治比真人豊浜(たじひのまひととよはま) が
 次の国守に任命されている。
 つまりこの時期に清麻呂が豊前守として入り込む余地がない。
 上記3史料の再検討が必要であるし、
 宝亀2年から同4年以外の時期に清麻呂が
 豊前守であったことも考えられる。

▲『日本後紀』巻八
延暦十八年(七九九)
二月乙未《廿一》◆乙未。

流陸奧国新田郡百姓弓削部虎麻呂。
妻丈部小廣刀自女等於日向国。久住賊地。
能習夷語。屡以謾語騷動夷俘心也。
』美濃備中二国飢。遣使賑給。
』贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造
和氣朝臣濂麻呂薨。

本姓磐梨別公。右京人也。
後改姓藤野和氣眞人。
清麻呂爲人高直。
匪躬之節。
與姉廣虫共事高野天皇。
並蒙愛信。

任右兵衛少尉。神護初授從五位下。
遷近衛將監。特賜封五十戸。
姉廣虫及笄年。許嫁從五位下葛木宿祢戸主。
既而天皇落餝。隨出家爲御弟子。

法名法均。
授進守大夫尼位。委以腹心。
賜四位封并位祿位田。
寳字八年大保恵美忍勝叛逆伏誅。
連及當斬者三百七十五人。
法均切諌。天皇納之。
減死刑以處流徒。乱止之後。
民苦飢疫。弃子草間。遣人收養
。得八十三兒。同名養子。賜葛木首。

此時僧道鏡得幸於天皇。出入警蹕。
一擬乘輿。號曰法王。

大宰主神習宜阿蘇麻呂媚事道鏡。
矯八幡神教言。令道鏡即帝位。天下太平。
道鏡聞之。情喜自負。天皇召清麻呂於牀下。
曰。夢有人來。

稱八幡神使云。爲奏事請尼法均。
朕答曰。法均軟弱。難堪遠路。
其代遣清麻呂。
汝宜早參聽神之教。
道鏡復喚清麻呂。募以大臣之位。
先是路眞人豊永爲道鏡之師。
語清麻呂云。道鏡若登天位。
吾以何面目可爲其臣。
吾與二三子共爲今日之伯夷耳。
清麻呂深然其言。常懷致命之志。
徃詣神宮。

神託宣云云。清麻呂祈曰。
今大神所教。是国家之大事也。
託宣難信。願示神異。
神即忽然現形。其長三丈許。色如滿月。

清麻呂消魂失度。不能仰見。
於是神託宣。我国家君臣分定。
而道鏡悖逆無道。輙望神器。
是以神靈震怒。不聽其祈。
汝歸如吾言奏之。天之日嗣必續皇緒。
汝勿懼道鏡之怨。吾必相濟。

清麻呂歸來。奏如神教。
天皇不忍誅。爲因幡員外介。
尋改姓名。爲別部穢麻呂。
流于大隅国。
尼法均還俗。
爲別部狹虫。流于備後国。

道鏡又追將殺清麻呂於道。
雷雨晦暝。未即行。俄而勅使來僅得免。
于時參議右大辨藤原朝臣百川愍其忠烈。
便割備後国封郷廿戸。送充於配處。
寳龜元年聖帝踐祚。有勅入京。
賜姓和氣朝臣。復本位名。
姉廣虫又掌吐納。叙從四位下。
任典藏。累至正四位下。帝從容勅曰。
諸侍從臣。毀譽紛紜。未嘗聞法均語他過。
友于天至。姉弟同財。孔懷之義。
見稱當時。
延暦十七年正月十九日薨。

與弟卿約期云。諸七及服□之日。
勿勞追福。唯與二三行者。坐靜室。
事禮懴耳。後世子孫。仰吾二人。
以爲法則。天長二年。天皇追思舊績。
贈正三位之告身。
弟清麻呂脚痿不能起立。
爲拜八幡神。

輿病即路。
及至豊前国宇佐郡□田村。
有野猪三百許。挾路而列。
徐歩前駈十許里。走入山中。
見人共異之。拜社之日。
始得起歩。

神託宣賜神封綿八萬餘屯。
即頒給宮司以下国中百姓。
始駕輿而徃。後馳馬而還。
累路見人。莫不歎異。
清麻呂之先出自垂仁天皇皇子鐸石別命。
三世孫弟彦王。從神功皇后征新羅凱旋。
明年忍熊別皇子有逆謀。皇后遣弟彦王。
於針間吉備堺山誅之。以從軍功。
封藤原縣。因家焉。今分爲美作備前兩国也。
高祖父佐波良。曾祖父波伎豆。祖宿奈。父乎麻呂。
墳墓在本郷者。拱樹成林。
清麻呂被竄之日。爲人所伐除。
歸來上疏陳状。
詔以佐波良等四人并清麻呂爲美作備前兩国国造。
天應元年授從四位下。拜民部大輔。
爲攝津大夫。異遷中宮大夫民部卿。
授從三位。延暦十七年上表請骸骨。
優詔不許。仍賜功田廿町。以傳其子孫。

清麻呂練於庶務。尤明古事。
撰民部省例廿卷。于今傳焉。
奉中宮教。撰和氏譜奏之。帝甚善之。
長岡新都。經十載未成功。費不可勝計。

清麻呂潜奏。令上託遊獵相葛野地。
更遷上都。清麻呂爲攝津大夫。
鑿河内川。直通西海。擬除水害。所費巨多。
功遂不成。
私墾田一百町在備前国。
永爲振給田。郷民恵之。

薨時贈正三位。
年六十七。有六男三女。長子廣世。
起家補文章生。延暦四年坐事被禁錮。
特降恩詔。除少判事。俄授從五位下。
爲式部少輔。便爲大學別當。
墾田廿町入寮爲勸學料。
請裁闡明經四科之第。又大學會諸儒。
講論陰陽書新撰藥經大素等。
大學南邊以私宅置弘文院。
藏内外經書數千卷。
墾田□町永充學料。
以終父志焉。


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