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神社一覧 南九州


大穴持神社


大穴持神社


contents:

鎮座地/御祭神/神事・例祭/由緒/概要/考察

鎮座地

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■所在地:  鹿児島県霧島市国分広瀬3-1089 北緯31度42分53秒, 東経130度45分26秒 ■連絡先:  霧島市国分(0995-45-5111)   ■交通 : 鹿児島交通バス:国分〜鹿児島 西広瀬下車目の前


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御祭神

No 神社名 位置所在 名称 祭神 摘要 備考
2 大穴持神社 本殿 大穴持
(大国主命・火山鎮護)
少彦名命
(大国主命の弟・温泉の神)

桜島・新島の噴火鎮護
末社 境内 日の神 不詳

天照大神?
末社 境内 月の神 不詳

月読神(スサノオ)?
末社 境内 稲荷大明神 宇迦之御魂神(倉稲魂尊) 大歳命

末社 境内 太田神社 猿田彦神


末社 境内 大王神社 不詳

牛頭大王?


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神事・例祭

例祭名概要摘要
3下旬蝮祓い祭旧3/13
7吉日御神幸祭7月
7吉日六月燈祭
929例大祭
1119霧島大祭
11下旬霜月丑祭旧11月丑


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由緒

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続日本紀

■天平宝字八年(764)■ 十二月是月。  西方有聲。似雷非雷。  時當大隅薩摩兩國之堺。  烟雲晦冥。奔電去來。  七日之後乃天晴。  於麑嶋信尓村之海。沙石自聚。  化成三嶋。炎氣露見。  有如冶鑄之爲。  形勢相連望似四阿之屋。  爲嶋被埋者。  民家六十二區。口八十餘人。 ■天平神護二年(766)■ 六月己丑《五》◆己丑。 大隅國神造新嶋。 震動不息。 以故民多流亡。 仍加賑恤。
■宝亀九年(778)■ 十二月甲申  去神護中。  大隅國海中有神造嶋。  其名曰大穴持神。至是爲官社。
■創建不詳 ■宝亀九年(778): 「続日本紀」に大穴持神見ゆ。 去神護中。大隅國海中有神造嶋。 其名曰大穴持神。至是爲官社。 ■延喜式(927) 大穴持神社 ■治安元年 (1021)  正五位下・藤原(税所)篤如・宮司職下向  (大隅正八幡、大穴持神社、霧島神社等)  税所を氏とし曽於殿と呼称さる  姫木太夫篤季が神主大宮職  重久、最勝寺、姫木、芦江、川畑、馬場、妻屋川は同族   ■弘化3年(1846): 島津藩造営 ■明治4年(1871): 県社 ■明治42年9月15日: 次を合祀  塩おかみ神社、住吉神社、田の神神社、  延喜式(927)にも出てくる古い神社。  大穴持神が御神体で、『おなんじさ〜』  と呼ばれ、蝮避けの神でもある。  鹿児島神宮の社伝によると  当初は、この噴火鎮護のための「祈祷所」を  鹿児島神社より勧請し創建したとある。  また、江戸時代の五社大明神の一社    当初は、噴火により新造された小島に鎮座


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概要


由緒

拝殿

鳥居(国道に面している)

噴火で出没した小島?
バックは桜島

社殿

社殿

境内

境内

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考察



  1. 祭神で「日の神」「月の神」は祭神不詳となっているが 多分記載の通だろう。 当初は「隼人族・古来の地主神」ではとの推論もあるが。
  2. また「大王」も不詳だがこれも 多分津島神社の牛頭天王だろうか。
  3. 大国主神は、朝鮮新羅系渡来の神だが、 隼人平定の為移住した宇佐系の建立か?、 隼人族古来の地主神を改宗したとも考察されるが、、
  4. 当初は、沖合い(錦江湾内)の神造島に鎮座していたが 後に、現在の場所に遷座されたとのこと。 ==>>続日本紀に記載の島はどうもその後沈下したらしい。
  5. また、当初は、鹿児島神社の祈祷所(火山鳴動鎮護) として設立されたようだ。
  6. この”神造島”は、1200年前(764)に 突如出現した島でその時の災害を鎮める為に 創建されたと推察するが。
  7. 昔から伝承の浜の市沖にある「神造島」ではないらしい。 ==>>この島は海底隆起により6000年前にできた。 ===>>出典:s44/鹿児島短期大学、二宮ますみ 調査
  8. とするとこの時噴火して出来た島はどこなのか? ===>>現在、桜島にある「鍋山」付近らしい。
  9. また、敷根沖には江戸時代に沈下した神社があるが この可能性は?

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津軽から勧請とは
国分諸古記によると、 昔、奥州津軽山に鎮座。 西国の守護神となって下向された とある。
大穴持大明神 右大明神者 昔奥州津軽山江御安鎮被遊候処 為西国守護神下校下向可有御座旨 勅命を以常州込江庄主橘氏 宮永家上下二十五人二 神輿を守護仕籠下候 ..................
そこで、 「大穴持神(大国主神)」 で津軽地方を検索してみたら 蝦夷平定のため勧請した神社がある。

======= 青森県神社庁 ======

大杵根神社

☆住 所  	弘前市田茂木町93 
 	
☆御祭神 	
  国作大己貴命
  事代主命
  天穂日命
  
☆例祭日 
七月十六日

☆由 緒
 大同二年征夷大将軍坂上田村麿勅命を奉じて、 
 北陸より陸奥の東夷を討伐の際、 賊の容易に退治し難きを知って、 
 当神社を勧請し、 
 神威を以って征伐せんことを祈誓し給ふといへども詳かならず、 
 其の時、 大杵根神社と称し奉る。
 
 元禄九年津軽藩主信政公の時今の地に社殿を建て安置し奉る。
  以後代々の藩公藩費を以て祭費営繕費を支出している。 
  明治六年廃社となるが、時の神主長利仲聴の念願により
  明治八年再建し私祭として無格社となる。 
  明治十一年一般衆庶の参拝願出の趣許されて普通の神社となる。
  
  南の熊襲(隼人)と北の蝦夷は 度々、朝廷と抗戦をし、平定のため 各地から配属されている。 また 知行不届き等で左遷されている。 この頃の左遷・配流先は 大抵南九州や東北だったことが伺える。

『続日本紀』巻卅四

宝亀七年(七七六)九月丁夘《十三》◆丁夘。

陸奥國俘囚三百九十五人分配大宰管内諸國。

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『続日本紀』巻卅九

延暦六年(七八七)閏五月丁巳《癸丑朔五》◆閏五月丁巳。

陸奥鎭守將軍正五位上百濟王俊哲坐事左降日向權介。

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『日本後紀』巻三逸文
(『類聚国史』一九〇俘囚・『日本紀略』)

延暦十四年(七九五)五月丙子《十》◆丙子。

配俘囚大伴部阿■良等妻子親族六十六人於日向国。
以殺俘囚外従五位下吉弥侯部真麻呂父子二人。◆■て。

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『日本後紀』巻八

延暦十八年(七九九)二月乙未《廿一》◆乙未。

流陸奧国新田郡百姓弓削部虎麻呂。
妻丈部小廣刀自女等於日向国。

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『続日本紀』巻卅

神護景雲三年(七六九)十一月己丑《廿五》◆己丑。

陸奥國牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言。
傳聞。押人等本是紀伊國名草郡片岡里人也。
昔者先祖大伴部直征夷之時。到於小田郡嶋田村而居焉。
其後。子孫爲夷被虜。歴代爲俘。幸頼聖朝撫運神武威邊。
拔彼虜庭久爲化民。
望請。除俘囚名。爲調庸民。
許之。


このような出典から、 推測の域は出ないが あるいは、 日向辺りから当地へ配置換えになった者も あったかもしれない。 では、 なぜ津軽地方に 「大国主命」 が祭祀されるように なったのだろうか。 津軽地方には 秀真伝(ほつまつたえ) と呼ばれる 古代伝承があるそうな。
秀真伝(ほつまつたえ) 国学者の平田篤胤が 懸命に捜索したが、 ついに発見できなかった 幻の書とされる 津軽神話によれば 多賀に アラハバキ王 のハララヤが 置かれたという 伝承があり、 また 聖地を 「壺」とする ホツマ伝承と、 坪の石文伝説 (東北のどこかにある とされる日本中央の碑) との関連があるそうだ。 ホツマでは 古代の津軽は 「日隅(ヒカル)の国」 と云われ、 国譲り後の大国主命が 津軽のアソベの森に 家臣180人と共に移り住んだ と伝承されているそうだ。
中津軽郡岩木町には オオナムチの娘のタカテル姫 を祭祀する 国重要文化財の 高照神社(中津軽郡、青森) がある。 津軽の神社の詳細は 青森県神社庁
結局のところは
年代西暦摘要備考
宝亀七年776陸奥國俘囚三百九十五人
宝亀九年778其名曰大穴持神。至是爲官社
延暦六年787陸奥鎭守將軍正五位上百濟王俊哲坐事左降日向權介
延暦十四年795配俘囚大伴部阿■良等妻子親族六十六人於日向国。 以殺俘囚外従五位下吉弥侯部真麻呂父子二人
延暦十八年799流陸奧国新田郡百姓弓削部虎麻呂。 妻丈部小廣刀自女等於日向国
大同2年807大杵根神社創建
  1. 時系列に並べてみたが 官社として「大穴持神」を勧請した2年前に 陸奥国から395人と云う多人数が大宰府預けになっている。 あるいはその中の数名が当地へ。
  2. また、その後日向へ配流された者が 当地へ来たとも考えられる。
  3. 陸奥国から勧請したと言う伝承だが、 参照にした「大杵根神社」の創建は 当地の大穴持神社より新しいから その線はなさそう。
  4. 但し、それ以前の勧請社が出れば 話は別で面白くなるのだが。


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