国分諸古記によると、
昔、奥州津軽山に鎮座。
西国の守護神となって下向された
とある。
大穴持大明神
右大明神者
昔奥州津軽山江御安鎮被遊候処
為西国守護神下校下向可有御座旨
勅命を以常州込江庄主橘氏
宮永家上下二十五人二
神輿を守護仕籠下候
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そこで、
「大穴持神(大国主神)」
で津軽地方を検索してみたら
蝦夷平定のため勧請した神社がある。
======= 青森県神社庁 ======
大杵根神社
☆住 所 弘前市田茂木町93
☆御祭神
国作大己貴命
事代主命
天穂日命
☆例祭日
七月十六日
☆由 緒
大同二年征夷大将軍坂上田村麿勅命を奉じて、
北陸より陸奥の東夷を討伐の際、 賊の容易に退治し難きを知って、
当神社を勧請し、
神威を以って征伐せんことを祈誓し給ふといへども詳かならず、
其の時、 大杵根神社と称し奉る。
元禄九年津軽藩主信政公の時今の地に社殿を建て安置し奉る。
以後代々の藩公藩費を以て祭費営繕費を支出している。
明治六年廃社となるが、時の神主長利仲聴の念願により
明治八年再建し私祭として無格社となる。
明治十一年一般衆庶の参拝願出の趣許されて普通の神社となる。
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南の熊襲(隼人)と北の蝦夷は
度々、朝廷と抗戦をし、平定のため
各地から配属されている。
また
知行不届き等で左遷されている。
この頃の左遷・配流先は
大抵南九州や東北だったことが伺える。
『続日本紀』巻卅四
宝亀七年(七七六)九月丁夘《十三》◆丁夘。
陸奥國俘囚三百九十五人分配大宰管内諸國。
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『続日本紀』巻卅九
延暦六年(七八七)閏五月丁巳《癸丑朔五》◆閏五月丁巳。
陸奥鎭守將軍正五位上百濟王俊哲坐事左降日向權介。
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『日本後紀』巻三逸文
(『類聚国史』一九〇俘囚・『日本紀略』)
延暦十四年(七九五)五月丙子《十》◆丙子。
配俘囚大伴部阿■良等妻子親族六十六人於日向国。
以殺俘囚外従五位下吉弥侯部真麻呂父子二人。◆■て。
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『日本後紀』巻八
延暦十八年(七九九)二月乙未《廿一》◆乙未。
流陸奧国新田郡百姓弓削部虎麻呂。
妻丈部小廣刀自女等於日向国。
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『続日本紀』巻卅
神護景雲三年(七六九)十一月己丑《廿五》◆己丑。
陸奥國牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言。
傳聞。押人等本是紀伊國名草郡片岡里人也。
昔者先祖大伴部直征夷之時。到於小田郡嶋田村而居焉。
其後。子孫爲夷被虜。歴代爲俘。幸頼聖朝撫運神武威邊。
拔彼虜庭久爲化民。
望請。除俘囚名。爲調庸民。
許之。
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このような出典から、
推測の域は出ないが
あるいは、
日向辺りから当地へ配置換えになった者も
あったかもしれない。
では、
なぜ津軽地方に
「大国主命」
が祭祀されるように
なったのだろうか。
津軽地方には
秀真伝(ほつまつたえ)
と呼ばれる
古代伝承があるそうな。
秀真伝(ほつまつたえ)
国学者の平田篤胤が
懸命に捜索したが、
ついに発見できなかった
幻の書とされる
津軽神話によれば
多賀に
アラハバキ王
のハララヤが
置かれたという
伝承があり、
また
聖地を
「壺」とする
ホツマ伝承と、
坪の石文伝説
(東北のどこかにある
とされる日本中央の碑)
との関連があるそうだ。
ホツマでは
古代の津軽は
「日隅(ヒカル)の国」
と云われ、
国譲り後の大国主命が
津軽のアソベの森に
家臣180人と共に移り住んだ
と伝承されているそうだ。
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中津軽郡岩木町には
オオナムチの娘のタカテル姫
を祭祀する
国重要文化財の
高照神社(中津軽郡、青森)
がある。
津軽の神社の詳細は
青森県神社庁