- 三国名勝図會(1-905)には神亀山の中腹に鎮座。
 三国名勝図会
どうもこの図会から察すると、「可愛山稜墓」を鎮護する
神社の色彩が強い。
だから延喜式にもこの神社ではなく、南薩摩の「開聞神社」が
列記されたのだろう。
- 鹿児島の寺社は、当時は岩清水の管轄下に於かれて
赴任した神官らとの確執が多々散見され
「人間味のある」歴史が垣間見れる。
- ■長寛2年(1164)
- 薩摩國新田宮先執印桑田信包、押書の事売訴ふ。
- ■建長8年(1256)
- 薩摩國八幡新田宮所司神官等、
正殿以下造営のことを訴ふ。
- 当初、中腹にあった社殿だが、
これが焼失した年代が定かでないらしい。
古文書(薩摩國新田宮神殿等実検状写:建久6年)には
「承平3年(933)」との記載がある
これが最近の精査で写し違いの可能性がでてきたそうだ。
一応、最近(2006年)の「新田神社」の由緒には次がある。
- ■承安3年(1173)
- 中腹にあった社殿が焼失
==>>宇佐神宮史には「■承安3年(1173)」の記載あり。
- また、神亀山の山頂に社殿を遷座したのが
いつなのか史資料が判らないが、
神社由緒によると島津義久によるらしい。
一応、三国名勝図会を引用すると
■安元2年(1176)に宣託が下りたとあるのだが
宇佐神宮史には
- ■文永5年(1268)
- 薩摩國八幡新田宮所司神官等、
當宮正殿、神殿、門廊等を山頂に造営のことを請ふ。
とあるので、こちらが正解だろう
とすると1268年以降となるのだが。
- 薩摩一宮は、当初は「枚聞神社」であったのだが
どうしてこの「新田神社」になったのだろうか。
どうも背景が見えてこない。
蒙古襲来時、幕府は各国国分寺・一宮に
蒙古討伐の祈祷を命じた。
当時の島津忠宗は、新田八幡宮に参拝し
剣・神馬を奉納した。
この参拝によって「薩摩国の一宮」は
「新田八幡宮」と認知される結果となった。
この背景には、新田八幡宮の執印と姻戚関係に
あったとか
建長5年(1253):
宇佐の別宮とあるのは「岩清水の九州五所八幡宮」を指す
==>>榊葉集、神書しょう
- 大隅国・正八幡宮
- 肥前国・千栗宮(佐賀県三養基郡みやき町)
- 肥後国・藤崎宮(熊本市)
- 筑前国・大分宮(福岡・筑穂町)
- 薩摩国・新田宮(鹿児島・さつま川内市)
鎌倉初期からは、「岩清水」の管理下、
それ以前は「宇佐」
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